私のソーラーカー・チャレンジ25年(後編) ―― 池上 敦哉 氏(ヤマハ発動機,Zero to Darwin Projectチーム代表)

真野 もとき

 ソーラーカー開発の第一人者である池上 敦哉 氏(写真1)へのインタービューの後編である.前回は,池上氏のソーラーカー,クルマ,バイクとのかかわりについて,少年時代からオーストラリア大陸縦断のソーラーカー・レースとして有名なワールド・ソーラー・チャレンジ(WSC)の1990年/1993年大会参加までの話を聞いた.後編では,1993年以降のエピソード,そして東海大学チームがWSC2009年/2011年大会で連覇するまでの話をうかがった.

 

※ 本インタビューの前編はこちら

 

 

写真1 池上 敦哉 氏(ヤマハ発動機,Zero to Darwin Projectチーム代表)

 

 

●秋田・大潟村に国際的なソーラーカー・レースの専用道ができる

―― Zero to Darwin Projectチームは,1993年の第3回ワールド・ソーラー・チャレンジ(WSC)において10位で完走しました.次の1996年の第4回WSCでは,さらに上位を目指したのですか?

池上 敦哉 氏:いいえ.Zero to Darwin Projectは,第3回WSC終了後に当初の目的を達成したので,いったん解散になりました.これはチームの結成趣旨であったBE-PALのプロジェクトが終了したためです.

―― 解散ですか? しかし,いまでもZero to Darwin Projectチーム所属ですよね?

池上氏:ここは,ちょっと複雑なのです(笑).じつはWSCが開催された1993年に,秋田県大潟村で「ワールド・ソーラーカー・ラリー」の第1回が開催されました.最初から国際大会を目指して実施されました. 

―― 大潟村といえば八郎潟の干拓地ですね.どうして,そこでそのようなソーラーカー・レース大会が開かれたのでしょう?

池上氏:今の若い人は,かつては日本で琵琶湖に次ぐ2番目の大きな湖だった八郎潟を知らないでしょうね.大潟村は,わが国の政策として干拓によってできた新しい 村です.全国から集まった入植者が米国並みの大規模耕作を実現していました.50年も前の話です.それが国の減反(げんたん)政策により,せっかくの広大な農地が生かされなくなったのです.

 そんななか,八郎潟には平らな土地で長い直線道路があるので,ソーラーカー・レースなどにはもってこいだ,ということで,地元の人たちが秋田県や大潟村の支援を受けてソーラーカー・レースを熱心に誘致したのです.「せっかくやるのだったら,最初から世界大会にしよう」ということで,大潟村の人たちは同じ年に行われたオーストラリアのWSCにもレース運営の視察などに来られました.実際にWSCとコラボしていたのです.そうした努力の結果,1993年の第1回大会で,50台ほどのソーラーカーが日本全国,そして世界から集まったのです.

 ソーラーカー・レースだけではありません.ソーラーカーは太陽電池が高価で製作費がかかるし,必要な技術も簡単には獲得できません.そこで入門向けに,小さな太陽電池で参加できる「ワールド・ソーラー・バイシクル・レース(WSBR)」が考え出され,1994年から実施されました.1995年からは,もっと参加しやすいレースとして,原付スクータのバッテリ4個が供給されて2時間以内にどこまで遠くへ走れるかを競う「ワールド・エコノムーブ」が始まりました.こちらは太陽電池を使いません.エコノムーブ・レースは毎年5月のゴールデン・ウィーク中に,ソーラーカー・レースとソーラー・バイシクル・レースは夏に行われます.

 1993年に行われた第1回の大潟村の大会は,その年の秋に開催されるWSC用の車両製作に追われて,私は参加できませんでした.でも,ソーラー・バイシクル・レースは1994年の第1回から参加しました.

―― 大潟村の方は,とても熱心だったのですね.

池上氏:そうなのです.また,こうしたレースに公道を使うのは,一般車両の通行を遮断するなど,大きな制約がありますから,耐久レースなどの長時間レースには使いにくいのです.そこで,公道とは別に全長31km(当時)の次世代電池専用道路として「ソーラー スポーツ ライン」を作りました.ソーラーカー・レース専用道路です.「ワールド・ソーラーカー・ラリー(WSR)」の第2回大会(1994年)からこの専用道路を使っています.先ほど述べた「ワールド・ソーラー・バイシクル・レース(WSBR)」もこのコースを使って行われるようになりました.この1994年の二つの大会にZero to Darwin Projectチームのメンバは参加しました.

 チームは解散したのにソーラーカー作りは止められなかった,というわけです.熱い大潟村の方たちに動かされたこともあります.チーム名は,そのとき「なかよしZDP」にしていました.ZDPはZero to Darwin Projectの頭文字です.

 WSRのほうは「なかよしPAL」で2位,WSBRのほうは「とんかち」で優勝でした.「とんかち」は金槌の意味もありますが,それを意味していません.池上 敦哉の「敦」(敦煌のトンの字)」が勝ちにいくというので「トンカチ」なのです(笑).チームのメンバが名付けてくれました.

 

●ソーラー・バイシクルのオーストラリア大陸縦断レースで優勝

―― それでは,オーストラリア大陸縦断のWSCに話を戻しましょう.1996年の第4回大会には参加されたのですか?

池上氏:WSCの大会主催者から,「オーストラリアでも大潟村で行われたソーラー・バイシクル・レースを開催したい.ただし,WSCと同じルートの3000kmでやりたい.ソーラー・バイシクルでも本当に走れるものかどうかテストしたいので,まずは単独のチャレンジとして走ってくれないか」と要請がありました.1996年の元旦にオーストラリアのダーウィンを出発してアレデードまでの3000kmを走破しました(写真2).

 

写真2 オーストラリアで走る「スーパートンカチ」

 

 

 その結果,十分走れることが証明されたので,その年の10月に正式なレースとして「ワールド・ソーラー・サイクル・チャレンジ」がWSCと併催されることになりました.

―― ソーラ・バイシクル(写真2)のソーラー・パネルはとても小さいですね.これで電気は足りるのでしょうか?

池上氏:ソーラー・バイシクルといってもレースではいくつかのカテゴリがあり,仕様が異なります.この写真のクルマは,バイシクルといっても2輪車ではなく3輪車です.しかも,太陽電池から供給されている電気だけで走行しているのではありません.普通の自転車と同じように足こぎも行っています.つまり,電動アシスト3輪自転車なのです.先ほど述べた秋田のWSBRで参加した「とんかち」をベースに改良して,この「スーパートンカチ」を製作しました.

 じつは,元旦スタートのテスト走行(プレイベント)のとき,クルマの完成が間に合わず,部品は全部バラバラの状態でオーストラリアに送って,クリスマスから大晦日まで現地で毎日徹夜してなんとか完成させました.ハラハラドキドキ状態ですね.ライダーは日本から2名,もう2名は大会委員に紹介してもらったオーストラリア人です.日豪の混成チームというわけです(写真3).

 

写真3 オーストラリアのWSBRでのスーパートンカチ・チーム

 

 

 10月の本番のレースでは,米国からAeroVironment社と自転車メーカのGT社のジョイント・チームが参戦しました.AeroVironment社は人力飛行機の世界記録を持ち,第1回WSCで優勝したGeneral Motors社のSunraycer(本インタビューの前編で紹介)や無人飛行機の開発で有名な会社です.そんな会社が,自転車メーカのプロのライダーを連れてきて参戦してきたわけですから,正直なところ絶対に勝てないと思っていました.ところがレースがスタートしてみると,われわれの圧勝で,無事,優勝することができました.

 このときは,毎日新聞にメイン・スポンサーになっていただきました.多くの企業の協賛を得ることができました.でも,このソーラー・バイシクル・レースは,オーストラリアでは続いていません.とても残念です.

 

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