デバイス古今東西(53) ―― AT&Tベル研究所から生まれたイノベーションのその後
筆者は,AT&Tベル研究所で開発されたテスト容易化設計用の自動テスト生成ソフトウェアの日本のビジネスに取り組んだことがあります.今回は,その経験談とAT&Tベル研究所について触れます.
●スグレモノのEDAソフトウェア・ビジネスが失敗した理由
1989年頃から,筆者は活動領域の半導体部品から,米国で多発的に創出されていた新興のEDA(Electronics Design Automation)ベンチャ企業に精力的に接触を開始しました(EDAについてはコラムの第4回も参照のこと).そのいくつかは日本での商権を確保すると同時に,株式の投融資も行いました.バブル時代だったので,筆者が勤務していた会社でも湯水の如くキャッシュが湧いていました.会社からは一商材あたり億円単位での投資が容認されていたのです.ビジネスで稼ぎ,投融資でもキャピタル・ゲインがねらいでした.すでに出資していた米国Xilinxは株式公開しましたし,いくつかのEDAベンチャ企業も大手のベンダに買収されたり,投融資としてももうかりました.当時,バブル期に稼いだ収益は半端な額ではなかったのです.
そういった状況下で知人から,1991年過ぎにマレーヒルのAT&Tベル研究所で開発していたLSIのテスト容易化設計用の自動テスト生成(ATPG:Automatic test pattern generation)ソフトウェアの紹介を受けました.そのとき,ベル研究所ではEDA全般の開発だけでなく,FPGA(Field Programmable Gate Array)の開発も行っていました.
当時の商用のATPGは組み合わせ回路専用でした.D-アルゴリズムやPODEMといったアルゴリズムが中心で,順序回路には対応していませんでした.よって,順序回路のテスト生成の場合にはスキャン回路を挿入して対処していました.つまり,チップ面積が増大を犠牲にしながら,フリップフロップの制御性ならびに観測性を可能にさせて故障検出率を上げていたのです.それに対して,ベル研究所のATPGは順序回路に対してスキャン設計をすることが不要でした.さらに,CMOSの漏れ電流Iddqで故障検出するテスト・ベクタ生成等の機能も併せ持っていた,スグレモノだったのです.
ただ後々,AT&Tの企業文化を知ることとなります.製品品質,バグ,サポートの迅速性,サービスの不備など,散々な結果でした.シリコンバレーのベンチャの文化とは真逆です.結果として,ビジネスは不調に終わりました.
●マレーヒル:トランジスタと情報理論の生誕地
AT&Tベル研究所は,元々はマンハッタンのウェスト・ストリートに事務所がありました.1929年の世界恐慌の後に,新事務所は,ニューヨークから25マイルほど離れた,ニュープロビデンスとバークレーハイツという二つの静かな郊外の町にまたがる,ニュージャージー州マレーヒルと呼ばれる地域に建設されることになりました.「マレーヒルに移った理由は,郊外に移転することで物理学,化学,音響学の担当者がホコリ,雑音,振動をはじめとするニューヨーク・シティ特有の障害物に悩まされないようにすることだった」といいます.その後,マレーヒルのベル研究所は,Shockleyなどがトランジスタを発明した所でも有名になりました.
情報理論で有名なClaude Shannonもベル研究所で衝撃的な理論を打ち出した一人です.戦争のための暗号や暗号解読のチームに加わったのが最初のキャリアでした.1945年には,「暗号の数学理論(A Mathematical Theory of Cryptography)」,すなわち,さまざまな暗号システムの歴史や方法論を探求した論文を書きます.情報理論につながる前段階のものです.そして1948年7月に発表された「通信の数学的理論(A Mathematical Theory of Communication)」が,情報時代のマグナカルタと呼ばれる情報理論となりました.
論文の基本的な主張の一つは,「情報は質量やエネルギーのような物理量として考えられる」でした.つまり,「ある地点から別の地点へ,どれほど速く正確にメッセージを送ることができるのか」という問題に根本的な答えを提示したことにあります.具体的には,「メッセージに含まれる情報の内容や大きさを「ビット」という単位で算出するのが非常に有効である」ということと,もう一つの主張は誤り訂正符号です.「あらゆるディジタル・メッセージは誤り訂正符号さえ含めておけば,たとえワイヤにどれほどノイズがあろうと現実的に完璧な状態で送ることができる」.まさに「ベル研究所で発明されたトランジスタとShannonの情報理論の力が合わさることで未来の扉が開いた」のです.
●分割と他分野への進出がもたらしたもの
AT&Tは,長年,米国内の電話を一手に引き受けた独占企業でした.1974年に,米国司法省がAT&Tを独禁法違反で訴えました.そこでAT&Tは,AT&Tの総資産の3分の2を占める地域電話会社を分離し,それぞれ独立企業にしました.それと引き換えに,他の業界,すなわち,データ処理やコンピュータ間通信,電話・コンピュータ端末の販売等への参入を禁止するという合意から解放されます.
ただ,他の業界への進出はうまくいきませんでした.例えば,AT&TはNCRの買収を通じてコンピュータ業界への参入を試みましたが,失敗に終わりました.電話機や電話設備の市場でも価格競争力のあるアジアのエレクトロニクス・メーカとの競争で苦戦しました.そしてベル研究所は,独占企業からLucent Technologies社,さらにはAlcatel-Lucent社の傘下に入り,それとともに従業員や事業部門を縮小し続けました.地域電話会社を手放すことで,ベル研究所は十分な研究資金を受け取れなくなったのです.
2013年9月2日に,米国通信大手のVerizon Communications社が,英国Vodafone社との合弁で米国携帯電話最大手のVerizon Wireless社を完全子会社すると発表しました.このVerizon Communications社も,1984年のAT&T分割で誕生した米国東部の地域電話会社です.
●「何かを売らなければいけない状況に置かれたことがなかった」
経営学者Peter Druckerは,「現代のエレクトロニクスの大半を生みだしたのはベル研究所の発見や発明である(Bell Laboratories' discoveries and inventions have largely created modern "electronics")」と言っています.
しかしAT&T本体は,殿様商売という大きな問題を抱えていました.「ベル研究所とAT&Tは,一度も何かを売らなければいけない状況に置かれたことがなかった」,「どれほど企業規模が大きくても補えない差し迫った問題は,マーケティング能力の欠如だ」.
Druckerは,ベル研究所についてこう述べています.「トランジスタから光ファイバまで,そしてスイッチング理論からコンピュータ・ロジックに至るまでの広範な分野で,ベル研究所の科学者はあまりにも多くのものを生みだしてきた.それをベルシステムという導管に通そうとするのは,雪解け水を点滴器で処理しようとするのに等しい.ベル研究所の研究成果の主な利用者は外部,すなわち電話以外の産業であったが,ベル研究所はたまに名前を科学論文の脚注に載せてもらうぐらいで,ほとんど見返りを受けなかった」.
2013年9月現在,ベル研究所はAlcatel-Lucent社の子会社となっています.基礎科学,材料物理学,半導体研究といった基礎物理学分野からは手を引き,ネットワーク,高速電子工学,無線,ナノテクノロジ,ソフトウェアといった,収益に結びつきやすい市場分野に注力しています.
参考文献
(1) ジョン・ガートナー;『世界の技術を支配する ベル研究所の興亡』,文藝春秋,2013年6月.
(2) Peter F. Drucker;"Beyond the Bell Breakup", 1984.
(3) Priya Ganapati; "Bell Labs Kills Fundamental Physics Research",http://www.wired.com/gadgetlab/2008/08/bell-labs-kills/
やまもと・やすし
◆筆者プロフィール◆
山本 靖(やまもと・やすし).半導体業界,ならびに半導体にかかわるソフトウェア産業で民間企業の経営管理に従事.1989年にVHDLの普及活動を行う.その後,日米で数々のベンチャ企業を設立し,経営責任者としてオペレーションを経験.日米ベンチャ企業の役員・顧問に就任し,経営戦略,製品設計,プロジェクト管理の指導を行っている.慶應義塾大学工学部卒,博士(学術)早稲田大学院.