デバイス古今東西(48) ―― 日本のソフトウェアが米国に負けた三つの原因
ここでは,カーマーカー(Karmarker)特許紛争の当事者の一人である今野 浩 氏とその著書『工学部ヒラノ助教授の敗戦:日本のソフトウェアはなぜ敗れたのか』(青土社,2012年12月刊)をよりどころとして,日本のソフトウェア技術が弱体化した原因を紹介します.これは,米国の知財戦略,産官学一体となった歴史的ハードウェア偏重主義,ソフトウェア中心の計算機科学の世界における紛争や政治的力学と関係しています.
●数学・アルゴリズム特許に異議申し立てを行った今野 浩 氏
1990年代後半,日本でも数学公式が特許になりそうだったことを知って驚がくした記憶があります.それは,日本におけるカーマーカー特許論争です.
米国で1988年に特許が与えられていたカーマーカー法は,線形計画問題に適用される基本的な数学公式です.線形計画問題とは,簡単に言うとN元1次方程式を解く問題です.応用例としては,セールスマン巡回問題(いかにして最短経路で巡回するのか),待ち行列(病院でどの程度待つのか),飛行機航路選定(機種,燃料,時間,客数,気象など,さまざまな諸条件で最適な計画を選択)などがあります.Nが数百万の場合は,スーパコンピュータによる計算の領域です.カーマーカー法は当時,米国で成立していた数学・アルゴリズム特許の一つでした.
日本で1993年にその特許に異議申し立てを行い,異議申し立て拒絶の後の1997年に特許無効審判請求を行ったのが,当時,東京工業大学で教鞭を執られていた今野 浩 氏でした.その後,無効審判審決,すなわち特許有効の審判が出てから,東京高等裁判所へその無効審決の取消訴訟を行います.結果としては,アルゴリズムを見つけたNarendra K. Karmarkar氏が所属する米国Lucent Technology社は特許料の払い込みをせず,みずから特許権の放棄を行ったため,今野 浩 氏の訴えは却下されました.おそらくその時点でLucent社は,その商業的価値がないと判断したからだと思います.この一連の裁判上のやりとりでは,今野 浩 氏の学者としての信念と執念を強く感じました.
特許庁の見解は,「ソフトウェアは自然法則を利用しており,特許の対象になりうる.すなわち数学公式をプログラム化したものは特許になりうる」であり,カーマーカー法は単なる数学公式ではない,と認定していたと思われます.「特許法は日米で基本的なフレームワークが異なるものの,特許庁は時と場合により米国追従であり,日本の原則論が歪曲させられている場合がある」とのことです.
●ハードウェア偏重主義がまん延
『工学部ヒラノ助教授の敗戦,日本のソフトウェアはなぜ敗れたのか』の著者である今野 浩 氏は1960年代初め,日本の計算機科学の揺籃(ようらん)期にソフトウェア教育を受けた世代に属されている方です.1960年代後半には,米国でオペレーションズ・リサーチ(OR)の研究をされていました.ORは数学公式やアルゴリズムの研究が中心です.場合によってはそれをプログラム化し,コンピュータというハードウェアで処理を行います.今野氏が留学していたとき,米国では「ハードウェア研究は電気・電子工学の領分であって,計算機科学はソフトウェアとアプリケーションが中心に位置づけられていることを知った」と言います.そして,当時の米国の指導的な計算機科学科の方針であった「これから先,計算機はどんどん速くなる.メモリも安くなる.しかしこのような研究は,電気工学科や計算機メーカに任せよう.コンピュータ・サイエンス(計算機科学)は,計算機を使いこなすための技術,すなわちソフトウェアとアプリケーションに力を集中しなくてはならない」に感化を受けます.
しかし日本では,コンピュータの黎明(れいめい)期以降,ハードウェア偏重主義となります.今野氏は著書の中で,「(1960年代初め)の時代のわが国における計算機科学は,徹底したハードウェア重視だった.ハードウェア関係者は,ソフトウェア研究を二流の人がやること,計算機応用(アプリケーション)研究は三流の人がやることだと考えていた」,「ヒラノ青年(こと今野 浩 氏)のようなアプリケーション研究は,計算機科学の世界ではその(ソフトウェア研究の)またの下の"三流"扱いだった」としています.
さらに,「1970年代,政府・産業界・学会は,依然としてソフトウェアを軽視していた.財政支援を求めるソフトウェア研究者に対して通産省の担当課長は,『今からやっても,ソフトウェアでアメリカに追いつくのは難しい.われわれは"ものづくり(ハードウェア)"に集中し,ソフトウェアはアメリカに任せたほうがいい』」,「通産省の知恵袋を務める東大工学部の大物教授は,『日本の足腰(ハード)が強ければ,頭(ソフト)は少々やぼったくても構わない.ソフトウェアはアメリカに花を持たせてあげましょう』」と言います.そして最終的に,「1970年後半,日立,富士通などの国産機メーカは,このような空気の中で基本ソフトの自主開発を放棄し,アメリカ(IBM社)追随,すなわち"IBM互換機路線"を採用した」という状況に至ります.
●ソフトウェア陣営の内部抗争が発生
「通産省主導のハードウェア偏重路線もさることながら,ソフトウェア科学のリーダたちの"志の低さ"にも責任がある」.そして「日本でもソフトウェア科学の理念を確立して,アメリカを上回る拠点作りを行わなくてはならない」ということで,1970年代後半には日本でも,米国のStanford UniversityやCarnegie Mellon Universityに匹敵するソフトウェアを中心とした計算機科学のグランド・プロジェクトが構想されました.筑波大学情報学類(計算機科学科)は,「ソフトウェア中心の計算機科学を打ち立てるための拠点」という理念のもとに設立された大学の一つでした.
しかしその時代,日本のソフトウェア科学の実権を握ってきたのは,数学や(応用)物理,電気工学,機械工学などから転出してきた人々だったと言います.こういった研究者が主流派となり,新時代の計算機科学の担い手たちは単なる「主流派へのチャレンジャ」にすぎませんでした.「当時,日本のあちこちの大学に,情報科学科や情報工学科が設立されていたが,ある大学は電気工学の出店,ある大学は数学科の植民地,そしてある大学は電気・機械の共同統治といった具合いで,米国の一流大学の計算機科学科に完全に後れを取っていた」のだそうです.
さらに大学内の紛争,大学内政治の力学などが追い打ちをかけます.「ソフトウェア陣営の内部抗争と物理帝国の総攻撃によって,あえなく瓦解した」と言います.そして現在,「日本のソフトウェア科学とソフトウェア産業は,アメリカに差をつけられてしまった」のです.
●敗因は三つ
日本のソフトウェア科学の未来は,1970年代後半,上述の計算機科学のグランド・プロジェクトによって設立された大学の成否にかかっていた,と今野氏は主張します.しかし残念ながら,日本の大学の計算機科学科は,「いまだに国際A級には届いていない」ようです.そして,「わが国のソフトウェア科学が,米国の一流大学に遠く及ばない状況を見るにつけ,ヒラノ教授はあのグランド・プロジェクトが潰えたことに,慚愧(ざんき)の念を禁じ得ないのである」と締めくくっています.
日本のソフトウェアが米国に負けた敗因を筆者なりに整理すると,以下の三つが考えられます.
一つ目は,レーガン政権以降の米国の知財戦略です.米国では,先に述べた数学公式やアルゴリズムを特許として認め,それを応用したソフトウェア開発が米国で先行しました.さらにビジネス・モデル特許がその後に続きます.日米双方で特許の対象とならないとされていたビジネス方法についても,米国で特許が認められることになります.ビジネス・モデル特許の多くは,今ではインターネットとコンピュータ・ソフトウェアに関連した重要な基盤となっています.
二つ目は,政府,産業,学会が一体となったハードウェア偏重主義です.ただし,メモリに代表されるコンピュータの要素技術である半導体産業が世界を席巻した事実もあり,「功罪相半ば」というところでしょうか.
筆者は大学の組織構造や組織力学には詳しくないのですが,三つ目はソフトウェア中心の計算機科学科内における紛争や政治的な力学も多少の影響があったと思われます.
興味を持たれた方は,ぜひ今野氏の著書を手にとってみてください.
●参考文献
(1) 今野 浩;実践 数理決定法,日科技連出版社,1997年7月(大学の講義を中心に教材としてまとめられている.ただ,カーマーカー法とディッキン法のくだり,AT&T社の特許の異議申し立て,無効審判申し立てのやりとりは,学者としての信念と執念を強く感じた).
(2) 今野 浩;カーマーカ特許とソフトウェア,数学は特許になるのか,中公新書,1995年12月.
(3) 今野 浩;工学部ヒラノ助教授の敗戦:日本のソフトウェアはなぜ敗れたのか,青土社,2012年12月(本書は,「工学部ヒラノ教授」(新潮社,2011年1月刊),「工学部とヒラノ教授の事件ファイル」(新潮社,2012年6月刊),「工学部ヒラノ教授と4人の秘書たち」(技術評論社,2012年10月刊)に続く,ヒラノ教授シリーズの1冊.筒井 康隆 氏の「文学部唯野教授」(岩波書店,1990年1月刊)に触発され,工学部に勤める"働き蜂"集団の生態をありのままに書いたもの).
やまもと・やすし
●筆者プロフィール
山本 靖(やまもと・やすし).半導体業界,ならびに半導体にかかわるソフトウェア産業で民間企業の経営管理に従事.1989年にVHDLの普及活動を行う.その後,日米で数々のベンチャ企業を設立し,経営責任者としてオペレーションを経験.日米ベンチャ企業の役員・顧問に就任し,経営戦略,製品設計,プロジェクト管理の指導を行っている.慶應義塾大学工学部卒,博士(学術)早稲田大学大学院.