デバイス古今東西(35) ―― なじみの正規分布に落とし穴,ときには「ブラック・スワン」の概念で捉えることも必要

山本 靖

tag: 半導体

コラム 2012年3月27日

 過去に例がない事象が社会に大きな衝撃を与える現象を「ブラック・スワン(黒い白鳥)」と呼びます.ブラック・スワンの背景には,理工系の技術者や研究者にはなじみの薄い「べき分布」という確率上の概念が存在します.本稿では,このブラック・スワンの考え方について述べていきます.

 

●大事件の後は「ブラック・スワン」に注目が集まる

 米国では2008年9月のリーマン・ショックの後に,日本では2011年3月の福島原発事故の後に,ブラック・スワンの概念に注目が集まり,数多くの新聞,書籍,雑誌などで紹介されました.ブラック・スワンの概念は,認識論者,研究者で金融デリバティブの専門家でもあるナシーム・ニコラス・タレブ氏の著書『ブラック・スワン』に由来します(1).いわく,「オーストラリア大陸(の黒い白鳥)が発見されるまで,旧世界の人たちは白鳥と言えばすべて白いものだと信じて疑わなかった」,「はじめて黒い白鳥が発見されたとき,一部の鳥類学者(それに,鳥の色がものすごく気になる人たち)は驚き,とても興味を持ったことだろう」,「何千年にもわたって何百万羽も白い白鳥を観察して確認してきた当たり前のことが,たった一つの観察結果で完全に覆されてしまった」(1),「黒い白鳥とは,単に特定の観察者が期待していなかった何ごとかを表しているだけだ」(2),注1.同氏は,1988年のLTCM(Long-Term Capital Management)破たん,2001年の米国同時多発テロ事件,2004年のスマトラ島沖地震,Google社の驚くべき成功など,数々の社会現象をブラック・スワンと位置づけています.

 

注1:ブラック・スワンをもう少し昇華させたの補足説明(参考文献(2)のp.51)は以下の通り.「黒い白鳥とは大きな影響を及ぼす認識の限界であり,心理(思い上がりやバイアス)と哲学(数学)の両面における,個人と集団両方の知識の限界である.大きな影響を及ぼす認識の限界というのは,大事なのは衝撃の大きいまれな事象であり,私たちの知識は,経験的にも理論的にも,そうした事象に出くわすと,使いものにならなくなるからだ.黒い白鳥とは,ある種の領域における人為的な間違いに関する問題なのだ.どういう領域かといえば,科学主義の長い伝統と,知識を増やすことなく自身ばかりをあおる情報がたっぷりの領域である」.

 

 タレブ氏は,社会生活において「普通」にばかり焦点を当てる研究を否定しています.「普通」とは,ここでは正規分布(ベル・カーブ)の確率密度関数に基づいて推定できる世界を指します.統計学の多くは,大きくかい離した数値を無視します.めったにない極端な事象を取り扱う場合,一般統計学とか,過去の積み重ねを重視した帰納法的推論では何も分からない,というのが著者の本質的な主張です.

 

●決定論 vs. 確率論

 西洋では,「世の中の出来事はすべて引き起こされている」と考える思想があります.これが「決定論(deterministic)」です.例えばビジネスという因果の領域を考えると,売り上げにつながる原因があり,売り上げにつながらない原因もあります.ビジネスの成否のみならず,因果は地震やニュートン力学といった自然現象,戦争やテロなど,あらゆるものが対象となります.

 一方,タレブ氏の著作は不確実性についてのものです.つまり確率論(stochastic)の範ちゅうにあると言えます.例えば半導体の開発を進める場合,スケジュールやコストは事前に計画するものの,すべてを予見することはできません.将来を一元的に決定することはできない,というのが根本の考え方です.従って不確実性を前提とした現実のプロジェクトでは,スケジュールの工程時間を見積もる方法や修正作業,修正にともなうプロセスを確率的なモデルとして表現し,その影響度合いを考察したりします.

 ただしタレブ氏の主張では,確率論や統計学の教科書に記されている正規分布で推論するのではなく,べき分布を用いて議論を展開させている点が異なります.

 ここで,先に述べた社会生活における「普通」,すなわち正規分布という確率分布を用いた推論とべき分布を用いた推論の違いについて整理しておきます.正規分布の確率密度関数は,左右対称のつりがね状の曲線です.べき分布も見た目はとても似ています.図1に正規分布と株価・債権の変動から構築されたべき分布の一つ(ヒストグラム)を示します(3)

 

 

図1 正規分布とべき分布(ヒストグラム)

出典:神永 正博;不透明な時代を見抜く「統計思考力」,2009年4月.

 

 

 正規分布は,平均近辺に集中的に集まっており,平均から離れるにつれて急速に小さくなります.べき分布は小さくなる制約がなく,すそ野は広がっていきます.すそ野はどこかに上限があるのかもしれませんが,上限がどこなのかは分かりません.

 この問題については,横軸を対数にとってグラフを描けば明らかになります.右側方向のすそ野を拡大した理論値が図2です.「拡張可能」と記された関数がべき分布です.べき分布は平均から遠く離れたすそ野では,「拡張不能」な分布注2に属する正規分布と比べて大きな値(縦軸成分の頻度や確度の類)になっていることが分かります.

 

注2:「拡張不能」な分布とは,平均から離れるにつれて幾何級数的に小さくなる分布.正規分布,ガウス分布,多少ひずみのあるt分布,飛行機の事故件数の分布,地震の頻度に利用されるポワソン分布などを含む.

 

図2 べき分布の広いすそ野

出典:ナシーム・ニコラス・タレブ;『ブラック・スワン[上],[下] ― 不確実性とリスクの本質』,2009年6月.

 

 

 例えば,国民の成人の身長のデータをとると,現実の世界では10cmや5mといったデータは出現しません.しかし,そういった極端な差が出やすい性質を持つ現象が,社会には存在しています.米国の上位1%の超高額所得者はその他の庶民(99%)とは所得分布が異なると言われています.このほか,株価・債権の変動や極端に大きな地震の発生など,予測が立ちにくい特徴を持った現象も存在します.こういった現象は正規分布でモデル化することはできません.

 

●電機メーカの赤字決算はホワイト? ブラック?

 ソニーのアドバイザリーボード議長で,クオンタムリープ 代表取締役 ファウンダー&CEOの出井 伸之 氏は,自身のブログに「日本企業発ブラック・スワンを待望」というコラムを執筆されています(4).そこでは,「日本を代表する大手電機メーカ数社の巨額経常赤字決算が世の中に衝撃を与えた.中身を見ると,どの会社もテレビ事業の苦戦が大きな赤字要因となっているようだ」,「独り負けの様相を呈する日本メーカのこの状況をブラック・スワンと見る人が多いようだが,私はあえて今の状況をホワイト・スワンと見ている」と述べています.

 その理由として,ディジタル時代を象徴する半導体技術は大きなアドバンテージ要因にならなくなったことが挙げられています.この半導体技術を用いている日本のテレビ産業の現在の状況は,起こるべくして起きたもの,とのことです.そしてこのコラムの最後では,「次世代のネットワーク技術,使用者の利用体験,さらにはコンテンツのクリエーションから活用方法をも踏まえて,テレビの生態系をトータルで再設計するような,真のブラック・スワンが日本企業発で提供されることを心から期待したい」と締めくくっています.

 このコメントを逆説的に考えるなら,期待感はあってもGoogle社が出現するほどの極めて小さい確率である,と捉えることもできます.

 大学における理工系の確率・統計学,あるいは人文・社会科学系の統計学の多くの教科書は,べき分布について解説していません.すでに述べたとおり,べき分布は極端に大きな地震や津波などの自然現象,株や為替の価格変動などの経済現象を表現する分布モデルです.正規分布に見た目は似ていますが,正規分布と違って決められた平均や分散が無限大,あるいは平均は存在するが分散は存在しない,とされています.

 このべき分布は経済学を出発点として考えられた概念で,工学系の技術者や研究者にはなじみが薄かったと言えます.そのため,社会生活における「普通」にばかり焦点を当てた研究・開発,あるいは設計思想や安全評価手法が当たり前のものとして継承されてきました.しかし昨今では,「無知」であることを知らずに研究・開発を進めると,大きなトラブルや事故につながる,ということを理解する必要があります.

 

●参考文献
(1) ナシーム・ニコラス・タレブ 著,望月衛 訳;ブラック・スワン[上],[下] ― 不確実性とリスクの本質,ダイヤモンド社,2009年6月.
(2) ナシーム・ニコラス・タレブ 著,望月衛 訳;強さと脆さ On robustness and fragility,ダイヤモンド社,2010年11月.
(3) 神永 正博;不透明な時代を見抜く「統計思考力」,ディスカヴァー・トゥエンティワン,2009年4月.
(4) 出井 伸之;「マネーブログ カリスマの直言 日本企業発ブラック・スワンを待望」,日本経済新聞 Webサイト. 

やまもと・やすし

 

●筆者プロフィール
山本 靖(やまもと・やすし).半導体業界,ならびに半導体にかかわるソフトウェア産業で民間企業の経営管理に従事.1989年にVHDLの普及活動を行う.その後,日米で数々のベンチャ企業を設立し,経営責任者としてオペレーションを経験.日米ベンチャ企業の役員・顧問に就任し,経営戦略,製品設計,プロジェクト管理の指導を行っている.慶應義塾大学工学部卒,博士(学術)早稲田大学大学院.

 

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