話速変換や音域拡張,バーチャル・サラウンド,自動音場補正など(後編) ―― DSPによる音声信号処理の動向と実現法

米本 明弘,桜井 淳宏,岩田 佳英,伊藤 裕二

6. 個々の空間に適したリスニング環境を整える自動音場補正

 DVDが広く普及したことによって,ホーム・シアタ・システムなどにおいて個人でもマルチチャネル音響を楽しむ方が増えています.しかし,マルチチャネル環境を設定する際に,スピーカの配線自体も煩雑ですが,ある程度専門的な知識や技能を求められます.

 例えば,各スピーカからリスナ位置までの距離の差が大きくなると,各スピーカからの音の到達時間の差が無視できなくなり,ボリューム・バランスも崩れてしまいます(図20).そこで環境に合わせた補正をAVレシーバに設定する必要があります.一見,大変な作業ですが,一度こうした設定が適切になされると,リスニング環境は一変します.これまでばらばらだった音が一つにまとまって聴こえるようになります.



図20 5.1チャネル・スピーカ・システムの配置例
リスニング・ポジションから各スピーカまでの距離が異なるため,スピーカ遅延を適切に設定し,ボリュームを微調整する必要がある.また,床や壁からの反射により,周波数応答に影響が現れる.自動音場補正では各スピーカからテスト信号を出力し,リスニング・ポジションに設置されたマイクでこれを測定する.その結果からスピーカを自動設定するとともに,周波数応答を改善する.

 

 これを実現するために,リスナ位置にマイクを設置し,各スピーカから出力したテスト信号を測定することで,面倒な設定を自動化するアルゴリズムが求められます.

● スピーカの位置以外に天井や壁からの反射も考慮する

 リスニング環境を左右する要因としてスピーカと部屋の周波数特性も見逃せません.一般にリスナにはスピーカからの直接音だけでなく,床や壁,天井からの反射音も同時に届いています.つまりリスナはスピーカだけではなく,部屋の特性も通して音を聴いていることになります.
 

 図21にリスナ位置におけるスピーカの周波数応答とインパルス応答の例を示します.図21(b)のインパルス応答で,時刻13ms付近に見られる波形は床からの反射です.図21(a)の周波数応答では非常にたくさんの凸凹が見られますが,これらの多くはこうした部屋の反射による影響です.マイクを用いることで,個々のエンド・ユーザのリスニング環境におけるこうした特性をも測定できます.そして,その逆特性を持つフィルタを設計することにより,リスニング環境を改善できます.



図21 スピーカの周波数応答とインパルス応答

(b)で8ms付近の応答はスピーカからの直接波によるもので,13ms付近の波形は床からの反射によるもの.こうした反射の影響によって周波数応答には多くの凹凸が現れる.

 

● スピーカの自動検出と自動設定

 自動補正の第1段階はスピーカの検出と設定です.項目としてはスピーカの存在(あり/なし),接続の極性(+/-),距離(cm),ラウドネス(dB),大きさ(大/小),そしてカットオフ周波数(Hz)があります.まず,スピーカの存在性によって5.1チャネルや2.1チャネルなどのスピーカ構成を判定し,接続極性が+であることで配線が正しいことを確認します.次に,距離が最も遠いスピーカに合わせて各スピーカの遅延量を設定し,また,ラウドネスから各スピーカのボリュームを微調整します.こうすることで各スピーカからの音が同時に,かつ同じボリュームでリスナに届くようになります.そして最後にスピーカの大きさとカットオフ周波数からサブウーファとの連携を設定します.

● 逆フィルタで音場を補正する

 自動補正の第2段階は周波数応答の改善です.理想的な周波数応答として,ここではフラットな応答を考えます.これは音源に含まれている各周波数の振幅が,忠実にリスナの位置に伝えられることを表しています.通常はスピーカ自体も周波数特性を持ち,さらに部屋の反射の影響も入ってくるため,周波数応答はフラットにはなりません.そこで,この逆特性を持つようなフィルタを設計し,リスナ位置でフラットな特性が得られるように音場を補正します(図22).



図22 音場補正フィルタの例
リスナ位置で測定されたスピーカの周波数応答から,その逆特性を持つようなフィルタを設計する.このフィルタをかけることで,周波数応答が改善しフラットな特性が得られる.

 

 フィルタの種類には大きく分けてFIRとIIRがありますが,今回のアルゴリズムではFIRを用いてより細かく補正をかけることで,部屋の反射を打ち消す効果を強めています.

 実際に試聴してみると,もともと特性がフラットでない小型のスピーカでは特に効果が顕著に現れます.低域と高域のバランスがとれることで帯域が広がり,また,部屋の反射が弱められることで定位感が増し,ボーカルや楽器の音源位置がよりはっきりと分かるようになります.

● 自動音場補正をDSPに実装するためのヒント

 このアルゴリズムも音声信号処理用プロセッサである「Aureus DSP(6)に実装されています.音場補正用の逆フィルタには512タップのFIRを用いています.このような長いFIRを定義式通りに実装すると,48kHz/5.0チャネルで60MHz程度の処理量になってしまいますが,よく知られた実数FFTによるオーバラップ法を用いると,18MHzの処理量で済みます.また,テスト信号にはスイープ信号を用いていますが,部屋の反射をとらえきるために32,768点という組み込みシステムとしては長大な信号を用いています(48kHzで0.68秒分).このようにすると,周波数応答を計算する際にも同じ点数のFFTが必要になります.通常のFFTルーチンを用いると,係数テーブルだけでも32Kバイト必要になってしまいます.このような大規模FFTは,FFTの構造に注目して小規模FFTに分割する(12)ことにより,既存の最適化FFTコードを再利用しつつ,係数テーブルも削減できます(図23).これにより係数テーブルは4Kバイトに抑えられています.



図23 既存のFFTコードを利用した大規模FFTの実装
N=A×Bとし,N点FFTとB回のA点FFTとA回のB点FFTに分割する.A点FFTとB点FFTには既存のFFTルーチンを利用できる.ただし,両者の中間でのスクランブル処理と変調処理が必要.



 

参考・引用*文献
(7)TAS3108/TAS3108IA Audio DSP Instruction Set Reference Guide,2007,Texas Instruments.
(8)D. R. Begault;3-D Sound for Virtual Reality and Multime
dia,AP Professional,1994.
(9)W. G. Gardner;Reverberation Algorithms,in Applications of Digital Signal Processing to Audio and Acoustics,Kluwer,1998.
(10)A. Oppenheim and R. W. Schafer;Digital Signal Process
ing, Prentice Hall,1975.
(11)D. H. Cooper and J. L. Bauck;Prospects for transaural re
cording,in J. Audio Eng. Society,vol 37,pp.3-19,1989.
(12)J. S. Lim,A.V.Oppenheim,青山友紀;現代ディジタル信号処理理論とその応用,丸善,1992年.

 

よねもと・あきひろ,さくらい・あつひろ,いわた・よしひで,いとう・ゆうじ
日本テキサス・インスツルメンツ(株) ソフトウェア研究室

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