ぐるっと回ると正面入り口です(写真4).
[写真4] 正面入り口のようす.なお,再現した建物は現在の基準にのっとって作られており,当時とは違う設備(給排水設備など)がついている.それらについては再現した部分と混同されないように,材料とデザインを変えている.
また,この建物は当時より70cm高い位置に造られており,発掘した遺構をそのまま見ることができるのぞき窓が数ヵ所に設けられています(写真5).
[写真5] 正面玄関の石段.これは再現したものではなく,発掘された本物である.
また,再現した旧新橋停車場には鉄道歴史展示室が併設されています(写真6).2003年7月21日までは「日本の鉄道開業」というテーマで,当時のようすを示す資料などを展示しています.また,各種情報のデータベースを閲覧できるパソコン「旧新橋停車場データベース」(写真7)や,プラズマ・ディスプレイによる映像を利用した解説などがあります(写真8).
[写真6] 鉄道歴史展示室.入場無料.
[写真7] 旧新橋停車場データベース.若干準備中のページもあった.
[写真8] 「鉄道のあけぼの」,「汐留のあゆみ」,「陸蒸気(おかじょうき)で横浜へ」の3本の映像を閲覧できる.
●技術者の魂を学ぶ
鉄道を建設しようという運動は,明治維新(1868年)からまもなくして始まりました.江戸時代の日本は鎖国していたのでイギリス留学などは幕府の命に背く行いだったのですが,井上 勝(長州藩士,当時21歳)は藩命を受けて英国に密航し,ロンドン大学で鉱山と鉄道を学んだのだそうです.
――お上の意向に背いてまでも,やらねばならないことがある.
明治の世の中になり,「日本の近代化のためには鉄道建設が必要だ」と考えていた維新政府の大隈重信,伊藤博文(いわゆる開明派)が中心となって鉄道建設の計画を進めます.最終的には東京−京都−大阪を結ぶことが目標ですが,まずは,新橋(現 汐留)−横浜(現 JR桜木町駅のあたり)間29kmの建設が決まりました.
しかし,ここで抵抗勢力が….西郷隆盛を中心とした薩摩藩勢などは「そんなものより武力増強を」と主張し,鉄道建設に反対していました.田町〜品川あたりは薩摩藩らが地主であり,土地を提供してくれなかったのです.そこで,その区間は海のなかに堤を築いて鉄道をひくことになりました(写真9).
――たとえ火の上,水の上!
ちなみに,当時の鉄道の路線は,今のJR京浜東北線(新橋〜桜木町)とだいたい同じだったそうです.当時は海の中の堤だったところも陸との間を埋め立てて,陸続きになっています.
[写真9] 歌川影虎が描いた浮世絵「東京蒸気車 鉄道一覧之図」(品川区立品川歴史館所蔵).新橋〜品川間と,神奈川〜横浜間は海中に堤を築いて鉄道を走らせた.
(注:画像をクリックすると,説明が入った拡大版が表示されます)
さて着工が決まったのはいいけれど,工期は2年半.遅らせるわけにはいきません.そんなときに力をふるったのが,英国から呼ばれてきた技術者Edmund Morel(エドモンド・モレル,当時28歳)です.1870(明治3)年に来日して初代の鉄道建築師長に就任した彼は,鉄道建設の技術を日本に取り入れるにあたって,有効な提言をいくつか残してくれました.
例えば,鉄製の高価な枕木を輸入するのではなく,日本の資源と技術を生かして,木製の枕木を使うことを勧めました.
また,日本が外国の力を借りずに鉄道を建設できるように,国内の技術者を養成することを提言しました.これを受けて,明治政府は鉄道技術者を育てるための教育機関を設立しました.これが後の,難所と言われた逢坂山トンネル工事の成功(1880年)に結びつくのです.
――今も昔も技術者育成は欠かせない.
…うーむ.今日のお茶受けはためになりますね(え? ならない?).
そんなこんなのあらゆる難関を乗り越えて,鉄道は無事に完成し,1872年10月14日(当時の太陰暦では9月12日)に,新橋−横浜間で日本最初の鉄道が開業しました.
その後,1914(大正3)年に東京駅ができたのに伴い,新橋駅は汐留駅と改称され,貨物専用の駅となりました.このとき近くの烏森駅が新橋駅と改称されました(これが現在の新橋駅).
物流の拠点として活躍した汐留駅ですが,1917(大正6)年の台風と1923(大正12)年の関東大震災で大きな被害に遭い,駅舎が消失.1934(昭和9)年からの汐留駅改良工事で,残存していた諸施設も解体されてしまいました.
また汐留駅という存在自体も,戦後の道路網の整備に伴い貨物輸送の主流をトラックに奪われ,1986(昭和61)年に廃止に至るのでした.
…ご存じでしたか? お茶受けは歴史の勉強にもなるのです(え? しつこい?).
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